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誕生日考。
2014年06月25日 (水) | 編集 |
また今年も誕生日を迎えた。私の誕生日は、父の命日でもある。
父は61歳で肝臓がんのために亡くなった。
私は彼の余命宣告をうけた時から「まさかムスメの誕生日に逝ったりしないよね?」とドキドキしていたのだが、まさかのまさか、狙ったかのようにその日に逝ってしまった。「おまえら、オレの命日を忘れんなよ」とでも言うように。
よって私は、毎年この日に「生」と「死」について考えるはめになる。

私はずっと、自分が生きていることが不思議でならなかった。
「生」に対する執着はなく、むしろ「死」に憧れていた。生きて日々を過ごすことは私にとってとんでもない苦行で、その苦しさから逃れるために「死にたい」とばかり考えていた。
私は自分が存在していること自体、許せなかったのだ。
未熟で、不完全で、何の役にも立たない自分。そんなものが存在しているのは、害悪以外のなにものでもない。
だが、生まれてしまった。今も存在している。
だったら、存在する意味を知りたい。
私は自分の存在意義を他人に求めた。他人の役に立つこと、他人の期待に応えること、それは「私生きていてもいい? 存在していてもいい?」という確認作業だった。
何かをしなければ、役に立たなければ、喜ばせなければ、期待に応えなければ、私は嫌われてしまう。見捨てられてしまう。存在そのものを否定されてしまう。
自分で自分の存在を認められない人間にとって、自分が存在できるのは他人が認めてくれた時だけだ。
だから私は、嫌われることを極端に恐れる。
大前提として、私は自分を「存在しているだけでは嫌われる人間である」と思っているから。

この人生で、ずっと追い求めているのは「私を嫌わないで」という切なる願いだ。
自分が好きなものを「好きだ」と言うこと、自分が嫌いなものを「嫌いだ」ということ。
それができるようになるまで、たいそうな時間がかかった。
自分の意見を言うこと、自分のしたいことをすること、楽になろうとすること、快適さを求めること…。
そんなこと、畏れ多くてできなかった。そんな自分勝手なことをしたら、嫌われるに決まっている。
まず、相手の顔色を見ること。そして、相手の期待する(であろう)ことを察して行動すること。
そのスキルを必死に磨いてきた。
自分が快と感じるか、不快と感じるか、そんなことはどうでもいい。自分が不快であっても、他人が快ならばそれを優先させるべきなのだ。
私の人生の主役は、私ではなく「他人」だった。

30代~40代アタマの12年間、うつ病を患った。
ストレスなどの要因もあったろうが、「私は存在してはいけない人間だ」という固定概念が、病の素因となったであろうことは想像に難くない。
私の脳内にはそういった思考回路がすでにできてしまっている。うつ病が寛解した今でも、ちょっと気を抜くと安易にそちらの方向へ考えが行ってしまう。つまり「死にたい」という方向へ。

私の友達は、40歳の若さで逝ってしまった。
結婚し、二人の子をなし、生徒や保護者に慕われる教師でもあった。
いいヤツだった。魅力的なヤツだった。頑張り屋だった。最後まで「生きよう」としたヤツだった。
あんないいヤツが死に、「死にたい」と思い続けている私が生きている。なんたることぞ!
神様への理不尽さを感じるとともに、生きているくせに死にたいと考えてしまう自分に罪悪感を覚える。

また今年も誕生日が来た。今年も私は生きている。
年々、何かに生かされているから生きているのだろう、という思いが強くなる。
私がこの世で何ができるのか、何を遺せるのか、何の役割を果たしているのか…分からない。
分からないが、生かされている限りは生きる義務があるのだと考えるようになった。
ひろさちやは「人生に意味なんてありません。生まれたついでに生きている、それだけです」と言っていた。
その通りなのかもしれない。そして、そう思いながら生きれば、もう少し楽に生きられるのかもしれない。

あと何年生きるのか、あと何年生かされるのか。
でもそろそろ、自分を楽にしてやる生き方をしても許されるんじゃないだろうか。
生まれたついでに、生きてみよう。
そういえば、猫たちはみんな、きっとそうやって生きている。
猫たちのように生きて、猫たちのように逝きたい、と思う。
45歳スタートの日に。

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