2018年06月17日 (日) | 編集 |
高2現代文で、中島敦「山月記」をやっている。
高校時代に初めて読んだとき、なんてカッコイイ文章だろうと思った。
小難しい漢字がたくさん並び、漢文調の文体で虎になってしまった男の一人語りがつづく。
人間が虎になるなんてあり得ない世界なのに、読者をぐいぐい引き込んでいく文章力に魅了された。
しかし今回、教員という立場で改めて作品を読み、授業を組み立てていくと当時とは違う感覚を持った。
この男…自分に酔ってやがる。虎になったことを本当に悔やんでいるのだろうか。どこかで、この不思議に陶酔していないか?
また独白の中でちょいちょいと、「全く何事も我々には判らぬ。」とか「一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。」とか、他の人間も自分も同じだという一般化をしているのだが、そのくせすぐに「この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。」と自分だけが特別なんだと口にする。
苦しみを分かってくれと手を伸ばすくせに、自らその手を引っ込めて助けを拒絶しているように感じるのだ。
それがどうにも鼻持ちならない。李徴よ、おまいさん助けてほしいのかい、引きこもりたいのかい、どっちなんだい?
李徴の身に起こったことは悲劇だと思う。可哀想だと思う。同情する。
が、苦しみを一人で抱え込んで誰からの助けも拒否する未熟さに、イライラする。
もっと周りを信用しろよ。袁傪だって、旧友が虎になっているっていうのに驚きもせず話を聴いてくれたじゃないか。
「愛情や友情はあなたがいくら疑えど一方的に与えられ」るもんなんだよ。(米津玄師「WOODENDOLL」より)
自分のことしか見てないから、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が猛威をふるって、あんたを虎にしちゃうんだよ…。
私は李徴に共感できない。とうとうと身の上話をし、自らの脆弱さを語る李徴に中二病的未熟さを感じてしまう。
…と、ここまで考えて、なぜこんなにも私は李徴に不快感をもったのかを考えてみた。
ああ、そうか。私に似ているからだ。
私もまた、苦しい苦しいとあえぎながら手を伸ばすくせに、周囲を信じられずに「どうせ分かるはずがない」と自ら手をひっこめてしまう。助けを拒否することで注目を浴びようとする幼さも、私そのものだ。
中島敦は「人虎伝」をベースにこの作品を書いた。
「人虎伝」は一昨年に高2古典で授業をした。あれは、人が虎になったという怪異談を描く作品だった。
しかし、中島敦は「山月記」というタイトルをこれにつけた。人が虎になったこと自体が描く目的ではない、人の心に潜むエゴイズムと未熟さを描くのが目的だったからなのだろう。山と月は、虎になった李徴が作中で哀しく咆哮する舞台だ。
詩(芸術)という魔物に魅せられて、妻子を置き去りにし、はてには虎になってしまった李徴。
絵という魔物に魅せられて、最愛の娘が焼ける様を恍惚の表情で観察し、屏風絵に描いた良秀(芥川龍之介「地獄変」)にも通じるものがある気がする。
してみると、スケートという魔物に魅せられて、何度も身体を壊し痛み止めを注射しながらリンクに立つ選手もまた、「虎」なのではないか…? なんて、思ったりして。
人間が虎になるなんていうあり得ない話は、実はけっこう現実的なのかもしれない。
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高校時代に初めて読んだとき、なんてカッコイイ文章だろうと思った。
小難しい漢字がたくさん並び、漢文調の文体で虎になってしまった男の一人語りがつづく。
人間が虎になるなんてあり得ない世界なのに、読者をぐいぐい引き込んでいく文章力に魅了された。
しかし今回、教員という立場で改めて作品を読み、授業を組み立てていくと当時とは違う感覚を持った。
この男…自分に酔ってやがる。虎になったことを本当に悔やんでいるのだろうか。どこかで、この不思議に陶酔していないか?
また独白の中でちょいちょいと、「全く何事も我々には判らぬ。」とか「一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。」とか、他の人間も自分も同じだという一般化をしているのだが、そのくせすぐに「この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。」と自分だけが特別なんだと口にする。
苦しみを分かってくれと手を伸ばすくせに、自らその手を引っ込めて助けを拒絶しているように感じるのだ。
それがどうにも鼻持ちならない。李徴よ、おまいさん助けてほしいのかい、引きこもりたいのかい、どっちなんだい?
李徴の身に起こったことは悲劇だと思う。可哀想だと思う。同情する。
が、苦しみを一人で抱え込んで誰からの助けも拒否する未熟さに、イライラする。
もっと周りを信用しろよ。袁傪だって、旧友が虎になっているっていうのに驚きもせず話を聴いてくれたじゃないか。
「愛情や友情はあなたがいくら疑えど一方的に与えられ」るもんなんだよ。(米津玄師「WOODENDOLL」より)
自分のことしか見てないから、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が猛威をふるって、あんたを虎にしちゃうんだよ…。
私は李徴に共感できない。とうとうと身の上話をし、自らの脆弱さを語る李徴に中二病的未熟さを感じてしまう。
…と、ここまで考えて、なぜこんなにも私は李徴に不快感をもったのかを考えてみた。
ああ、そうか。私に似ているからだ。
私もまた、苦しい苦しいとあえぎながら手を伸ばすくせに、周囲を信じられずに「どうせ分かるはずがない」と自ら手をひっこめてしまう。助けを拒否することで注目を浴びようとする幼さも、私そのものだ。
中島敦は「人虎伝」をベースにこの作品を書いた。
「人虎伝」は一昨年に高2古典で授業をした。あれは、人が虎になったという怪異談を描く作品だった。
しかし、中島敦は「山月記」というタイトルをこれにつけた。人が虎になったこと自体が描く目的ではない、人の心に潜むエゴイズムと未熟さを描くのが目的だったからなのだろう。山と月は、虎になった李徴が作中で哀しく咆哮する舞台だ。
詩(芸術)という魔物に魅せられて、妻子を置き去りにし、はてには虎になってしまった李徴。
絵という魔物に魅せられて、最愛の娘が焼ける様を恍惚の表情で観察し、屏風絵に描いた良秀(芥川龍之介「地獄変」)にも通じるものがある気がする。
してみると、スケートという魔物に魅せられて、何度も身体を壊し痛み止めを注射しながらリンクに立つ選手もまた、「虎」なのではないか…? なんて、思ったりして。
人間が虎になるなんていうあり得ない話は、実はけっこう現実的なのかもしれない。
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この記事へのコメント
私も、中学か高校の国語の教科書に載っていたのを覚えています。べにおさんが今、高校で教えてるってことは、私も高校の国語でこれを教わったのかな? 私は国語がとても好きだったので、この作品も、作品の世界についていこうと頑張ってた記憶があります。
……が、今思い返すと! この『山月記』って十代の子にはかなり難しい話のような……決して楽しい話や気持ちの良い話ではないし。私のこの年齢でも、正直、理解したいとか共感したい内容ではないですからね~。いや、だからこそ若くて感受性豊かな世代が読むように教科書に載ってるのかしら?
……が、今思い返すと! この『山月記』って十代の子にはかなり難しい話のような……決して楽しい話や気持ちの良い話ではないし。私のこの年齢でも、正直、理解したいとか共感したい内容ではないですからね~。いや、だからこそ若くて感受性豊かな世代が読むように教科書に載ってるのかしら?
2018/06/25(月) 21:26:11 | URL | マリー #o/PXu/q6[ 編集]
「山月記」は高2現代文教材の大定番ですね~。もうずっと、どこの教科書会社の教科書でも、高2で採用しています。
仰るとおり、たしかに十代男子女子には、かなり難しい話ではありますね。語彙も、内容も、彼らの共感を得がたいと思います。
が、青年期特有の苦悩という点では、十代男子女子だからこそ共感できるんじゃないかな、という気がしました。とくに李徴の「中二病的」なところとかね(笑)。
この授業を終えて、生徒たちには「『人虎伝』と読み比べ、考えたことを述べよ」という課題を出しました。彼らがどんなことを書いてくるか、楽しみです。
仰るとおり、たしかに十代男子女子には、かなり難しい話ではありますね。語彙も、内容も、彼らの共感を得がたいと思います。
が、青年期特有の苦悩という点では、十代男子女子だからこそ共感できるんじゃないかな、という気がしました。とくに李徴の「中二病的」なところとかね(笑)。
この授業を終えて、生徒たちには「『人虎伝』と読み比べ、考えたことを述べよ」という課題を出しました。彼らがどんなことを書いてくるか、楽しみです。
2018/06/25(月) 21:41:10 | URL | べにお #-[ 編集]
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